昭和42年8月24日 夜の御理解
今日、午前中の奉仕の時弘子先生がここへ出てきてからお届けする。先生、最近は朝の奉仕から昼の時間を何時も少しの時間を眠らせて頂いておる。ところが最近はそこんところをおかげ頂いてから眠らずにおかげ頂く気持ちにならせていただきましたら、頻繁に神様のお知らせを頂くと云うわけです。
弘子先生は昔まだ高校時代から色々神様のお知らせを頂いておったのです。今度あのどういう御都合か知りませんけれども、やっぱり取次者としてのおかげを下さろうとする神様の働きがそういう風に形に現れたのだろうと思うのです。
ところがその最近それが頂けなかった。ところがこの本気でそりゃあ、云うなら朝の五時前から起きて、そして晩の十一時半ぐらい迄はどうしてもここは色んな御用がございます。いうならば三時間か四時間しか休む時間がないですけれども、本気でその気にならせて頂きましたら御結界奉仕をしておって、いわゆる眠りこけることもなしにおかげを頂いておることだけではなくて、その気になれば神様はおかげ下さるということだけでなしに、頻繁としてお知らせを下さる。次々と。このことからして色々分からせて頂くのですけれども、確かこの神様は一足でも無駄にはさせんとおっしゃるのですから、例えば合楽と云うて一足でも心を向ける、足を向けてくれば、一足でも無駄にならないけれども、目の前に分からないだけのこと。それが五の力を持って向かえば、やはり五の力で神様は受けて下さるのですけれども、何と云うですか、神様には一心と云うものが必要なのです。
ですからそこんところを例えば生身を持っておるとですから、三時間、四時間で眠くなるというはずはございませんけれどもです、おかげを頂きますとそこがまあ楽とはいかんけれども、そこをおかげを頂いて行くことが出来る。そういう眠かときには、寝る、食べるときには食べると云ったような、そのそういう中からははっきりしたおかげが現れて来ない。こりゃあもう、切実心と申しますかねえ。一心を神様に向ける心と云うのが一途なものと云うて何時もかつもそういう風になかなか出来んのでございます。
ですから、私は思うんですけれども、うちの子供達の場合でも、例えばあちらの豊美なんかでも信心が出来ません。出来ませんけれども、あの人が一つの御神飯を炊く、ということに典楽なら典楽に限っては一心を燃やしている。それこそ一辺御神飯を炊かせて貰ってそれが焦げ付きましてね、御神飯にならないのです。その時なんんか泣いてお詫びお届をするのです。と云うくらいに御神飯なら御神飯ということに、時間なんか私が五時に一分でも遅れてはならないのですから、それに間に合うようにと云う一生懸命の願いと云うような一途のものが私はあればそれでいいんだと。例えばここの子供達の場合、私は何時か家内が「お父さん少しはどうか言いなさらんと子供達が言うことを聞かん」と言うのです。椛目時代でしたけれども、それでも「お前、中学校時代から善導寺の教会に日参するではないか、あれを止めた時に文句を言え」と私は言いよりました。
勝彦のでも、それあの人は十二才の時から御結界奉仕を一時間づつやりますから、午後の時間を賜わってやっております。ですからもう、「わるそでどうにも手が付けられん。あなたどうにか言いなさらんにゃ」と家内が申しますけれど、勝彦がもう御結界奉仕ばせんちゅうた時は言わなくてはならんばってん、あのことだけは、例えばいくら紙芝居が来とった最中であろうがですね、丁度紙芝居が來る時間だったのです。あの時分にはね、時間になったら親戚に行っとっても泊まられんのですね。僕は五時からの奉仕があるからと帰って来よりました。こういうことに一途なものを一人一人の上に感じる。それが続いておれば私はそれでいいと、そしてそういうような信心が続けられて行く内にですね、何かの機会にそれが、例えば西岡先生が最近どうもとっても三時間四時間で体がもてる筈が無いから寝ることは当り前のことのように思っておったけれども、それをおかげを頂こうと云う気になったら出来んことはない。出来んことはないだけではない。そこには神様から頻繁として交流するもの、その印としていろんなお知らせを頂くことになったと云うところから考えて、そういうことが何時もかつも出来るのことはないのですけれども、やはり信心が一途なものによってつながっておらなければならない。
只今、中村さんが朝昼晩お参りになります。ここ何日かお昼どうもお参りが出来なかった。そしたらそれでどうにも心がいらいらするというか、その心が落ち着かない。信心はアヘンだとある人が言うたが、アヘンのような災いをしておるからそうなるのであろうか、決してそうじゃあない。いわゆる神様がなかば、そとえさんの一途なものを受け取っておられるからでしょう。その志を続けて行けよと云うこと。それでいいと云うことではない。そういう信心が続けられて行く内に何か本気にならなければならない時にです、なりよいのです。そこには・・?、例えば目には見えないけれども、神様が一足でも、無駄にはさせんと仰るのですからそのおかげが、そのなんとなしに貯蓄されて行きよる。それが何かの機会にです、本気で一修行させて貰わなければと云ったような弾みが出来た信心が、出来る時にです、やはり力を受ける。神様との交流が始まる。それが身をもって感じる。おかげに感ずる、おかげがはっきりして來る。そしてこそ、信心はゆるめる訳にはいけんのであり、そこんところが続けられて行くところにそれがひとつの徳にもなって、それが当り前のこととして身に付いてくると云うこと。そういうおかげが頂けるのです。
ですから、やっぱり心に修行が付きものだと、修行におかげがつきものだといわれておりますがです、そういう修業が私は続けられて行かなければならない。その間に、例えばどうでありましてもですね、神様をそれを認めてくれた、例えば子供達を例に取りますようにそこに何か一つ神様とつながっておるものがあれば良い。それが何かの機会に爆発的にですかね、ま、云うならば人の真似の出来んような信心修行にぽんと入ることができるように、成程そこから、神様なるほど一足も無駄になさらんことが分かって來る。そこから神様との交流が始まるのですから、交流を切りたくない、切ったら淋しい。ですからそこんところを、やはりいわばその今、弘子先生が言っているようにいっぱい寝るのと寝らんのですから肉体を持っていますから、疲れもしますけれども、そこんところを辛抱しぬかせて頂くところに、やはり神様との、神様は不思議なお方で、そういう一途なものを向かうところにもう神様は話しかけておられる。 何時も話しかけておられるのであろうけれども、話しかけておられるのがこちらにキャッチ出来ないのです。 こちらが修行出来ないと、受け取ることが出来んのです。おかげもそうである。
だから、何時もかつも出来ることではないけれども、そういう機会に恵まれた時にそうした私は修行にも踏ん切りをつけて、先程田中さんからもお届があったように朝の御祈念にお参りさせて貰う、御用させてもらうがよいか、御理解頂くがよいか迷っておられる。そういう時にひとつ本気で踏ん切りをつけて難しい方を取らせて貰うといったようなおかげを頂くところから、そこになるほど神様が受け取って下さるんだなあと云う、神様とお話合いが出来なくても、お知らせを頂かないにしましても確かに一足でも無駄になさらんのだという実感が心に響いて來るようになるです。そこに信心の楽しみがある。それが一つの徳になってくると尚それは楽しいこと、有難いことになって來る。そこまではお互い信心をこぎつけていかなくてはいけんですよね。 どうぞ。